展覧会 開催終了

上野伊三郎+リチ コレクション展

ウィーンから京都へ、建築から工芸へ

会  期:
2009年4月11日(土)〜2009年5月31日(日)
時  間:
10:00~18:00
入館は17:30まで
休館日:
月曜日 ただし、4月27日(月)及び5月4日(月)は開館し、5月7日(木)は休館
観覧料:
一 般 600(450)円
大高生・65歳以上 450(350)円
小中生 無料
*( )内は20名以上の団体料金  *障がい者とその付添者1名は半額

主催 (財)目黒区芸術文化振興財団 目黒区美術館

協力 京都国立近代美術館

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展覧会について

わが国のモダニズム建築の揺籃期に、関西初の建築運動となった「日本インターナショナル建築会」を組織した上野伊三郎(1892-1972)は、ブルーノ・タウトを日本へ招聘した人物として、上野リチ(Felice "Lizzi" Ueno-Rix, 1893-1967)は、伊三郎と1925年に結婚後、日本へ渡り、ヨーゼフ・ホフマン率いるウィーン工房で培った創作理念をわが国へもたらした人物として、それぞれ日本の近代建築史やデザイン史に名前が刻まれつつも、ふたりの活動の全容はこれまでほとんど知られてきませんでした。

今春、目黒区美術館では、「上野伊三郎+リチ コレクション展」を開催し、上野夫妻の知られざる足跡に光をあてます。

本展の出品作品の核となるは、2006年度に京都国立近代美術館にまとめて寄贈された上野夫妻の作品資料群(京都インターアクト美術学校旧蔵)です。京都インターアクト美術学校は、1963年に上野夫妻が創設したインターナショナルデザイン研究所(のちにインターナショナル美術専門学校と改称)を前身にもち、小規模ながらも特色ある教育を行ってきた美術教育機関です。そして同校には、伊三郎の未公開の建築図面をはじめ、貴重な図書とともに、リチの作品のほとんどが、長年にわたり大切に保管されていたのです。さらに、この中には、「日本インターナショナル建築会」の機関誌『インターナショナル建築』も全29冊揃って含まれるなど、本作品資料群は、まさに「幻のコレクション」といっても過言ではありません。

本展では、この“コレクション”を中心に、上野伊三郎・リチ夫妻の活動の足跡を四つの章でたどります。

本展は、「ウィーン=京都」の両都市間で開花した上野夫妻の創造実践を、建築・デザイン・工芸などジャンルを横断した視点で再考し、あらためて綜合的にふりかえる貴重な機会となるに違いありません。

※ 本展は、今年初頭に京都国立近代美術館において開催された展覧会の東京会場巡回展です。

[京都会場 会期: 2009年1月6日(火)〜2月8日(日)]

本展の構成

第1章 上野伊三郎・リチのウィーン

京都に生まれた上野伊三郎は、早稲田大学で建築を学んだ後、ドイツについでウィーンで学びました。そして、1924年8月から11月まで、ヨーゼフ・ホフマンの建築事務所に勤務します。一方、ウィーンに生まれたリチは、1917年よりヨーゼフ・ホフマンが主宰するウィーン工房に入り、テキスタイルや陶器、ガラス、七宝など幅広いジャンルのデザイナーとして活躍していました。そして、伊三郎とリチはウィーンで出会い、1925年に結婚したのです。

第1章では、リチが制作した水彩画をはじめ、1920年代のウィーン工房時代に制作されたテキスタイル・デザインの原画、そして「リックス文様」と呼ばれたプリント地の原画や、代表作のひとつでもあるドイツのザルブラ社で製作・販売された壁紙のシリーズなどのほか、復活祭で使用される珍しい砂糖菓子のデザインや装飾品の水彩原画などを紹介いたします。リチのウィーンの感性にあふれる作品を通して、伊三郎も強く惹かれ、生涯変わることのなかったその創作の源泉を探ります。また、ウィーン時代に伊三郎が模したと思われる貴重な図面も紹介します。

第2章 上野伊三郎と「日本インターナショナル建築会」

ウィーンからリチとともに帰国した伊三郎は、1926年、京都市上京区竹屋町に「上野建築事務所」を開設しました。建築設計や監督、美術工芸図案を主な業務とし、リチはその美術工芸部主任として伊三郎の建築の仕事を支えてゆきます。そして、伊三郎と本野精吾ら関西のモダニズム建築家たちが集まり、新たな建築運動を立ち上げようという気運が熟し、1927年7月、この事務所で、上野伊三郎を代表者として「日本インターナショナル建築会」が結成されました。これは関西の地から、国内外に広く発信された初の建築運動となりました。

伊三郎・リチの海外でのネットワークも駆使して、外国会員にはブルーノ・タウトやヨーゼフ・ホフマン、ペーター・ベーレンス、ヴァルター・グロピウスらが加わりました。そして1929年8月に、機関誌『インターナショナル建築』を創刊します。さらに、1933年5月には、同会の招聘によってブルーノ・タウトが来日したことは周知のことでしょう。

第2章では、 機能性や合理性に基づく、いわゆるモダニズム建築を目指しながらも、わが国の気候風土にも適するよう「ローカリティ」という概念を導入した独自の姿勢を表明し、「建築を中心にして人間生活に関わるすべてを含む」という、壮大なヴィジョンをかかげた 「日本インターナショナル建築会」について、機関誌『インターナショナル建築』を全巻紹介しながら、光をあてます。

第3章 上野伊三郎とリチの京都

結婚後、京都に活動の場を移した上野夫妻は、市内の個人住宅をはじめとした建築の仕事を夫妻協同で行ってゆきます。1936年から3年間は群馬県工芸所へ、1939年から翌年までは夫妻で満州に赴きましたが、第3章では、本コレクションを構成する作例が、ほとんど京都で制作されたものであることから、伊三郎とリチにとっての京都という視点に焦点を絞り、その足跡をふりかえります。伊三郎が手がけた《島津邸》などの設計図面を展覧するともに、リチが取り組んだ工芸作品をご紹介します。

特に、リチがウィーンでも試みていた七宝やプリント地は、京都の技術を取り入れることで表現の幅が広がりました。色彩は、ウィーン時代よりも明るく鮮やかになり、モチーフも明確な形態が採用されているなど、リチの創造の新たな展開がうかがえます。

また、この時代、上野夫妻はそろって京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)工芸科に奉職し、「工芸教育」に精力を傾けてゆきますが、夫妻の創造理念は、続くインターナショナルデザイン研究所にも活かされていったのでした。

第4章 建築から工芸へ

伊三郎の建築家としての活動面は、現存する作例が極めて少ないこともあり、これまで詳しく知られてきませんでした。また、大学での教育活動が物語るように、リチを支えながら工芸の領域へと傾いてゆきましたが、しかし、その根底には、建築を綜合芸術の中で捉えるという伊三郎の変わらぬ姿勢があったといえるでしょう。

本コレクションには、上野夫妻の「建築と工芸」の共同作業ともいうべき、スター食堂系列店舗や京都市役所貴賓室の内装デザインなどの貴重な設計図面やスケッチが数多く残されていました。そして、上野夫妻とも交流のあった建築家・村野藤吾も、リチのウィーンの感性あふれる作風を愛した一人で、しばしば自身の建築内装にリチ・デザインを取り入れました。

本章では、夫妻の戦前の代表作《スターバー》や、戦後のリチの代表作である村野設計・日生劇場地階のレストラン〈アクトレス〉のための壁面装飾関連の作品やスケッチなどを展覧します。これらの室内装飾では、リチの生涯を貫く造形理念である「ファンタジー」を基調とした感性が見事に示され、工芸と建築の綜合化が実現されています。

『インターナショナル建築』の創刊号(1929年)には、その巻頭ページに意表をつくように、リチの壁紙図案のカラー図版が掲載されていました。また、第Ⅳ章で示す建築内装のような装飾的な作例は、バウハウスに象徴されるいわゆるモダニズム感覚とは相容れないように思われます。しかしながら、伊三郎と リチは、その若き日に、むしろウィーンで花開いたアール・ヌーヴォーからウィーン工房へという展開を実体験していました。さらに夫妻の共通の師といえるヨーゼフ・ホフマンも、家具、照明器具、壁紙、工芸、装身具、テキスタイルをはじめ、実に様々な作品を手がけ、それが「綜合芸術としての建築」という理念に結晶したのでした。

上野伊三郎とリチにとっての「建築から工芸へ」という創造展開は、「ウィーンから京都へ」という創造拠点の移行とともに再考すべきテーマでもあるでしょう。

上野リチ 《イースター用ボンボン容れ下絵》
1920年代

上野リチ《壁紙「夏の平原」》 (ザルブラ社製)
1928年以前

『インターナショナル建築』 第2巻第6号
1930年 発行:日本インターナショナル建築会

上野伊三郎《島津邸》1929 年

上野リチ《飾箱「中国芝居」》
1950年頃(1987年 稲葉七宝再製作)

上野伊三郎+リチ《スターバー》1930年

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